OUTNUMBER RADIO
FMコザ
毎週金曜 14時~15時00分

金谷)
本日はゲストに安里幸男先生にお越しいただき、北谷高校に来る前の豊見城南高校時代の6年間を徹底調査させていただきます。よろしくお願いします。

(安里)
こんにちは安里です。今日も宜しくお願いします。

弱小チームを勝ち上がらせた6年間

(金谷)
黄金時代と言われている北谷高校に就任する前に豊見城南高校に6年間いたということですが、個人的にはこの時期が非常に重要になってるんじゃないかと思います。

豊見城南高校が1981年に新設されたということで、その2年後に先生が就任されたということですね。当時は新設ということで、バスケットボール部員とかはどんな感じでしたか?

(安里)
学校の生徒数が約650名くらいで、バスケットボール部自体は25名くらいでしたかね。行った当初は初戦敗退を繰り返してる弱小チームでした。

僕が就任した翌年に入学した子たちの代が、市内の豊見城中学を中心とした近場の子たちが集まってくれました。

でも海邦国体を控えていたので、有望な選手は国体に向けての強化指定校でもあった興南高校と中部工業に集まっていきました。

(金谷)
海邦国体に向けての強化計画はどれくらいの期間の計画だったんですかね?

(安里)
4年くらいですかね。少年男子に関していえば彼らが中学の時から強化してますので、4年どころではなかったかもしれないです。6~7年くらい。あの当時の強化はすごいと思う。

(金谷)
結果的に少年男子は優勝しましたからね。

(安里)
県外遠征も多かったですし、たまたま大型で動ける選手も結構いたので強化が上手く行ったんでしょう。

当然有望な選手は強化指定校の方に行くので、豊見城地域の2番手3番手が豊見城南に入ってくれました。

弱小チームを新人戦の決勝まで辿り着かせたきっかけ

(安里)
就任当初は初戦敗退が多くて1年やってもなかなか結果がでない状態。

このままだと勝てないと思ったので翌年の夏に大阪商業大学に合宿に行きました。

「この弱い豊見城南が県外で通用するものは何か?」ということを探りに行きました。

その甲斐あってか9月には那覇南部地区優勝して11月の新人戦で決勝まで行きました。

決勝の相手は確か中部工業でしたね。

赴任したての時は30歳で赴任したので教員になれたことがとても嬉しかったので、すぐさま『打倒、能代工業』をみんなが見えるデスクの上に掲げてスタートしたんですけど、簡単に結果が出せるわけがない。

このまま結果が出ない普通の指導者として流されるんじゃないかという危機感を持って、それで県外への合宿を行ったりしてました。

(金谷)
大商大はそれ以前に繋がりがあったんですか?

(安里)
そうですね。その当時の島田先生が知り合いだったもんですから、無理に頼んで宿泊も大商大の合宿所で泊めてもらって、奈良の生駒山にあるんですが。

そこで寝泊まりしながら。崩れ落ちそうな合宿所だったんですけどね(笑)

3日4日くらい行ったかな。内地の高校や大学と結構試合をしました。

(金谷)
当時って今より簡単に内地に行くことができないイメージです。

(安里)
そうですね。でも何か手がかりを掴むために行ったわけですよ。

お金もかかるので保護者も喜んではなかったと思います。でも「こんなアツい先生が言うならしょうがない」と思ったんでしょうね。

あのおかげで豊見城南が常に上位に顔を出せるようになったんです。けれども優勝は無理でした。

やはり国体に向けての強化チームが強くて。1チーム倒してももう1チームに勝つことができない。

興南、中部工業の片方に勝ってももう1チームには勝てない。2チーム共に勝てるということはなかったですね。強かった。

(金谷)
強豪に勝つために秘策みたいなものはあったんですか?

(安里)
いや、秘策はない。もう粘り。

もちろんそれなりの対策は立ててやりますよ。

でも気後れしないようにしっかり立ち向かっていかないといけないし。そういうので力つけられたんでしょうね。

6年間いて最後の年には九州3位までなれたのはそのおかげだと思う。

(金谷)
県ではベスト4まで2年くらいでいきましたよね?

(安里)
そうですね。

沖縄青年チームの快進撃

(金谷)
豊見城南高校にいながらも国体の青年男子もコーチとして見られてたと思います。高校のチームと並行して国体の青年チームを見るっていう当時の感覚はどんな感じでしたか?

(安里)
当時のバスケのコーチはほぼみなさん教員がやってたの。一般の人がやるっていうことはほとんどなかった。

そんな中で大御所は少年男子の太田先生、比嘉先生。

僕が指名されたのは辺土名でちょいやってきたから「元気だからさせとけ」って感じだったんじゃないかと思うんですけどね。

昭和59年からコーチに就任して、九州ブロック大会では予選リーグで熊本に逆転勝ちして決勝で福岡に勝って優勝したの。

後に全日本に入った拓殖大学の平良選手。それから九産大の長濱選手。

この2人を加入させたことで地元の選手がすごく刺激を受けましたね。

とてもよく走るし。本当にこの2人には助けられた。2人の勢いにみんなが引っ張られて九州大会で優勝できたようなもんですよ。

でも不思議なことに沖縄の選手っていうのはすぐ気持ちがあうのでプレーがあってくる。この辺が強みだ。

それにそんなに大きい選手はいなかったから、みんなが走らないといけないということでたくさん走った。

ガードはいい子たちも多かったですけどね。

いい形で九州制覇してその勢いで鳥取国体でベスト4に入った。それまで男子が九州制覇するのも初めてで国体でベスト4に入ったのも初めて。

あの頃は本当に平良、長濱。ものすごくモテたね。行列できるくらいファンがいました。モデルみたいな体型してましたからね。

でも鳥取国体は宿舎が最悪だった。旅館から離れて行くとみんな元気になっていくので旅館の鬱憤を試合で晴らしてる感じ。それはもう忘れられない。

そういう意味で何が吉と出るか分からないですね。あれがデラックスなホテルだと逆にすぐ負けてたかもしれない(笑)

海邦国体での大活躍

(金谷)
先生の高校から海邦国体には嘉陽先生などの選手が選ばれてましたよね。

(安里)
国体には2名メンバーに入れてもらいました。その内の1人が今豊見城高校の監督をやってる嘉陽先生ですね。

(金谷)
どんな選手でしたか?

(安里)
彼はとても賢くてパスの上手い選手でした。よく周りを見てましたね。

国体メンバーはすごい選手がたくさんいたので、あまり出番はあまりなかったと思うんですが、そういう経験を積んだおかげで今の彼があると思いますよ。

高校の頃から選抜メンバー、県外遠征、色んなところに連れて行ってもらってたくさん経験したことが今に生きてると思います。その頃から研究熱心でしたね彼は。

(金谷)
この国体はこの世代の方々にはすごいインパクトだったんじゃないですかね?

(安里)
特に少年男子に関しては彼らが中学の時からピックアップされて県外遠征もなんども行ってるのでものすごい強化してきた。

本番では勝ち進んで決勝まで行きました。それで決勝は秋田と対戦します。能代工業単独の秋田と。

後に当時の能代工業の加藤監督から聞いた話ですが、「沖縄がこれだけ盛り上がってというなら優勝も譲ってもいいな」という気持ちになったそうです(笑)

それくらい沖縄のバスケが盛り上がってたということです。それがあって高校生も全国でもできるとう自身がついたと思いますよ。

良いコーチになるための条件

(金谷)
強化でみんなが1点に向かっての積み重ねというのは、逆に今の時代のヒントにもなるんじゃないかと僕も感じました。

(安里)
ですね。当時の、特に少年男子の強化の仕方はすごかった。

(金谷)
そういう熱狂があって5年後、10年後に北谷高校を見られた中で繋がるものがあったんですかね?

(安里)
豊見城南は30歳から36歳まで6年間やったので、そこで選手が良くても悪くてもめげずにやりつづけてある程度の結果を残せたことが、北谷高校での結果にも繋がってます。

平成元年に北谷高校に赴任して9ヶ月で県大会優勝、3年後に全国3位になれたのは豊見城南時代の頑張りがあったからだと思います。

良い選手が揃ったから頑張るとかだと良いコーチにはなれません。

どこでもどんな子がいても結果出すように頑張るというのがコーチの条件!

(金谷)
なるほど。まだまだ聞きたいことがたくさんありますがお時間きてしまいました。本日はありがとうございました!

(安里)
ありがとうございました。

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